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 島崎藤村の小説「破戒」のモデルといわれる飯田市下殿岡出身の教育者、大江磯吉(1868−1902年)をめぐり、胸像を菩提寺の円通寺(同所)に建立する計画と、その生涯を題材に演劇を制作する取り組みが、時を同じくして、進んでいる。

 胸像を建立する計画は、大江磯吉が1882(明治15)年創立の公立下伊那中学校(飯田高校の前身)の第1回卒業生であることが判明したことなどから、同窓生が中心となって胸像建立の会を発足させ、進めてきた。10月7日に除幕式を行なう予定だ。

 一方、96年に発足した市民演劇集団「演劇塾」は、泰阜村出身の夭折の歌人、金田千鶴の生涯を演劇化し、好評だったことに力を得て、郷土の先達に光を当てる第2弾として、「大江磯吉の生涯−演劇宿版 破戒考」(仮称)を制作することになった。今月23日に実行委員会を発足させ、来年12月の公演を目指す。

 たまたま二つの活動が同時進行になった形だが、どちらも大江磯吉に改めて光を当てるのが目的だ。その動きにかかわりの深い人たちに、今なぜ大江磯吉か、の思いを聞き、大江磯吉を顕彰する一助にしたい。

この連載は平澤秀明と矢澤兵庫が担当しました

 大江磯吉 1868(慶応4)年、下殿岡村(現飯田市下殿岡)の被差別階層の家庭に生まれた。公立下伊那中学校を優秀な成績で卒業後、長野県師範学校、高等師範学校で学ぶ。その後、長野・大阪・鳥取の各尋常師範学校の教諭を歴任。1902(明治35)年、兵庫県柏原中学校校長在任時、母の看病のため帰省中、腸チフスにかかり34歳で逝去した。
 在職中、苛烈な差別・迫害を受けながらも、封建社会的な身分差別に対する「忍」と、先駆的な教育知識と厚い人望による「力」の生涯を生きた。国家主義思想が教育界を覆う中で、自由を尊重した教育の普及に努めた。小説「破戒」の主人公の瀬川丑松とその師、猪子蓮太郎のモデルといわれている。

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第7回

父から受け継いだ人権意識

 飯田下伊那で初めて大江磯吉に注目して調査し、1919(大正8)年2月、小説「破戒其まま」を南信新聞紙上に連載した、小林孤燈(ことう・本名は實三郎。1897―1971年)。

 市民演劇集団「演劇宿」が手掛ける「大江磯吉の生涯(演劇宿版 破戒考)」の制作実行委員長に就任した前飯田市教育長の小林恭之助さん(74)=飯田市上郷黒田=は、孤燈を父に持つ。

劇制作実行委員長
 小林恭之助さん(74)

 「島崎藤村の小説『破戒』のモデルは大江磯吉である」と最初に発表した人は、当時飯田市図書館長だった郷土史家、小林郊人であるとされてきたが、小林郊人に大江磯吉のことを教え、資料を提供したのは孤燈だった。


 文学青年であり、ヒューマニストだった孤燈は、「破戒」(1906年初版)を読んで感動し、主人公の瀬川丑松に対する非道な差別に義憤を抱いていた。20歳で地元紙「南信新聞」の記者となり、「文章こそわが命なり」を信条に文筆活動に精励した。

 1918年春、取材で下伊那郡内の官公署や学校を巡回中、ある教員から「瀬川丑松やその師、猪子蓮太郎のモデルは大江磯吉である」との情報を得た。正義感と探究心に燃えた孤燈は、伊賀良村を歩き回り、大江磯吉と同年輩でまだ生存していた人々や古老などにインタビューして証言を収集する作業に全力を傾注した。

 孤燈は収集した資料を整理していくうち、「この価値ある真実を埋没し去るのは遺憾至極である」と連載を決意。「敢(あえ)て本篇を現代教育家諸君に捧ぐ」とサブタイトルをつけ、23回にわたる連載小説「破戒其まま」を公表した。

 自身も教育者として、人権意識の普及に努めた小林さんに、孤燈と大江磯吉について聞いた。

 ―小林さんから見てはお父さんはどのような方でしたか。

 ◆「宰相たらずんば ロンドンタイムスの記者たれ」。父がよく言っていた言葉です。見識を高めるため、早稲田大学の講義録を取り寄せて勉強し、部屋はたくさんの蔵書で覆い尽くされていました。

 文学青年でもあり、水戸浪士の天狗党の乱を題材にした戯曲の制作や、野底山の歴史編纂など広範な執筆活動を続けていました。

 ―小説「破戒其まま」で大江磯吉の存在を初めて地域に紹介した人だと思いますが、生前、大江磯吉について何か話していましたか。

 ◆終戦直後の1946(昭和21)年、小説「破戒」の再版が出版されたとき、父に読むよう勧められました。私は丑松の生き方にひどく感銘を受け、人を差別してはならないということを強く感じました。

 この本が私の同和教育の原点となったのです。父から地元出身の人物がモデルだと教えられ、迫害を受けながらも突出した人物となった立志伝を聞かされました。この当時に買った「破戒」は、今でも私の宝物です。

 ―小林さんにとって同和教育とは何ですか。

 ◆同和教育とは、あらゆる差別、学校でのいじめや不登校をなくすことにつながります。小さな子供に教えるときは、小学校1年で習う童謡「チューリップ」を使います。「赤、白、黄色、どの花見てもきれいだな」とあるように、赤だけ良くて白と黄色はだめ、ということではなく、「みんな違ってみんないい」ということを教えます。

 ―実行委員長として今回の演劇をどのようなものにしたいですか。

 ◆一番のテーマは「差別のない社会実現のための1ページ」です。この演劇を観てくれた人に、「差別は怖いこと、人は差別してはいけない」と感じてもらうことが、演劇を上演する側にとって大江先生の顕彰になるのではないでしょうか。

 「破戒」のモデルが誰であると追求することではなく、私は少年の日に父から与えられた心をもって、この演劇を必ず成功させたいと思います。

=おわり


第6回

大江の妻を研究して30年


「磯吉忌」を提唱する
 宮内宏さん(72)
 飯田市下殿岡出身の大江磯吉は34年の短い生涯であったが、比較的大勢の研究者によって研究され、著述の対象になっている。しかし、妻の「つま」についての研究は少ない。

 飯田市下久堅の宮内宏さん(72)は約30年前、飯田市立伊賀良中学校に在職中、道徳の学習の時間に関連し、島崎藤村の小説「破戒」のモデルとされる大江磯吉とその妻に興味を持った。
 妻はどのような女性だったのか、大江磯吉との出会い、結婚の動機はどうだったのか。大江磯吉の死後、妻はどうしたのか。下殿岡の共同墓地の夫の墓に埋葬された経過はどうだったのか、興味は尽きることがなかった。

 以来、宮内さんは大江磯吉の妻の「つま」について、地道な研究を続けている。

 -大江磯吉の妻「つま」の研究は、資料もあまりないだろうし、大変だったと思いますが。

 ◆最初は大江磯吉の各種謄本類の入手から始めました。何通もとって、少しずつ「つま」のことを調べていきました。飯田市内での謄本類の入手は学校の休み時間でも可能ですが、それらを基にしての県外の調査は、夏休みとか農繁休暇などを利用して行いました。

 -「つま」の実家は愛知県碧海郡福釜村というところのようですが、どのような調査を。

 ◆現在の安城市福釜町です。まず市役所を訪ねました。折り良く当時の岩月収二助役の生家が「つま」の隣家で、岩月氏は「つま」のことを子供のころに聞いたことがあるとのことでした。それによると、「『つま』はとても優しく、穏やかな女性で、近所でも評判の美人だった」そうです。

 「つま」は元士族、神谷善吉の二女であり、母親の「のじ」は庄屋の娘で、善吉とのじは当時としては先進的な恋愛結婚だったということも分かりました。

 -「つま」と大江磯吉はどのようにして出会ったのでしょうか。

 ◆はっきりとは分かりませんが、橋かけは岡崎へ出奔して富裕な未亡人と結婚した彼の兄の世話のようです。大江磯吉について研究した故・水野都沚生先生の論文に「自分の身分を打ち明けて、先方の了解を得た上で結婚した」とあります。

 -大阪・鳥取・兵庫などの大江磯吉の足跡も訪ねられたようですが。

 ◆二人の結婚は1893(明治26@)年。このころは大阪で希望に満ちた新婚生活を送ったと推察されます。

 大江磯吉は、ひたすら学究の徒として学問に打ち込んでおり、「つま」は、夫がたとえ被差別階層出身のらく印を押されていようと、夫への愛情はゆるぎもしなかったと思います。

 大江磯吉にとっては、「あくまで耐え忍ぶ力がすべてを解決する」という、彼が体得した生きる上での哲学と同様に、「つま」の情愛が心の支えとなっていたと思います。

 -全体を通して、今、大江磯吉から学ぶべきことは何でしょうか。

 ◆学ぶべきことばかりですが、特に兵庫県立柏原中学校長としての活躍は目覚ましいものがあります。要約すれば知育・徳育・体育の推進に加え、自由と規律の尊重でした。大幅に拡げた生徒の自治活動と、彼らに発表・表出のチャンスを与えたことは理論と実践の開発であり、差別と貧苦という人間的な苦痛を背負いつつ、ひたすら耐え忍びながら新しい教育思想を学んで来た大江の哲学であったと思います。

 これは当時の日本における新教育の先駆をなしたと言えるのではないでしょうか。私はその意味で、胸像の建立が終わったら、大江磯吉の命日の9月5日を「磯吉忌」とすることを提唱し、永続的に遺徳を偲びながらその業績を研究していきたいと思います。


第5回

大江研究会の立ち上げを提唱

 2001(平成13)年11月に発行された飯田高校同窓会名簿。その最初の公立下伊那中学校修了者=1884(明治17)年8月終了=と、長野県中学飯田支校入校者=同年9月入校=の中に、「小平磯吉」の名前が掲載されている。

 従来、飯田高校同窓会名簿は5年ごとに発行されて来たが、いずれも長野県立飯田中学校として独立してからの最初の卒業生を第1回(中1回生)として、1902(明治35)年から掲載しているだけだった。

飯田高同窓会副会長
 吉澤香代子さん(58)
 1998(平成10)年の夏。今年1月に亡くなった明治大学の後藤総一郎教授(高4回生)が時の塚田紀昭校長を訪ね、「島崎藤村の小説『破戒』のモデルといわれている大江磯吉は当校の卒業生のはずだ。次回発行の名簿にはぜひ掲載してほしい」と関係者とともに要請した。

 塚田校長も同窓生でもあり、「古い学籍簿を調査して、ご要望に応えられるようにしたい」と快諾した。その後、関係者の努力による調査が功を奏し、卒業生であることが実証された。

 大江磯吉は、小平家と養子縁組をして「小平磯吉」を名乗っていたが、1890(明治23)年、高等師範学校2年の時、大江家に復籍している。

 「大江磯吉胸像建立の会」実行委員の吉澤香代子さん(58)は飯田高校同窓会の副会長として活躍しているが、以前から「母校の大先輩である大江磯吉のことをぜひ研究したい。同窓会の中に、現在すでに活動している“合唱音楽同好会”のような組織を作ったら」と提唱して来た。

 喬木村の自宅で、機織(はたおり)の一種で、古い布を利用した裂織(さきおり)の作品制作に忙しい吉澤さんを訪ねた。

  -吉澤さんが大江磯吉を意識したのはいつごろですか。

 ◆信州大学1年生の国文学の時間に島崎藤村のところで、名作「破戒」のモデルは飯田市伊賀良出身の教育者の大江磯吉という方だと教えられました。私は阿智村出身ですから「お隣りでそんな偉い教育者が生まれたのか」と思うと同時に、「高校時代になぜもっと大江磯吉のことを勉強しなかったのだろう」と恥ずかしくなりました。

 -卒論のテーマには取り上げなかったのですか。

 ◆それが何と、劇作にあこがれておりましたので、卒論のテーマは“木下順二の社会観”でした。今にして思えば、“島崎藤村の社会観”とでもして取り組んでおれば、今回の事業や今後の研究会に役に立ったのかも知れませんね。

 今でも、当時の田中富次朗教授が目をつむって、流れるように、次から次と藤村研究の成果や、「破戒」と大江磯吉の話をしていた様子が、もう40年も昔なのに、昨日のように思い出されてきます。その大江磯吉が伊賀良の出身だと聞いた時は、本当に驚きました。

 -卒業後、教職に就かれたようですが、教育現場で大江磯吉との出会いはなかったのでしょうか。

 ◆教育現場では、同和教育の中で「破戒」や、大江磯吉の話は出て来ましたが、目の前の諸問題に振り回されていて、出会いというほどのものはありませんでした。

 でも、退職してから、東栄蔵先生や後藤総一郎先生の話を聞くにつれて、飯田高校の大先輩でもあり、立派な教育者であった大江磯吉のことをもっと勉強したいという思いは、ずっと持ち続けて来ました。

 -大江磯吉の胸像の建立は一過性のものではなく、その後の大江磯吉研究会の立ちあげも期待されているのでは。

 ◆その通りです。どなたかに先達になっていただき、ぜひとも研究会を立ち上げたいと思っております。



第4回

温かく支援した地域の人たち


隣家の矢沢家の孫
 矢沢尚さん(65)
 大江磯吉は1868(慶応4)年5月22日、信濃国伊那郡下殿岡村(現飯田市下殿岡)に、父周八、母志のの二男として誕生した。
 6歳で創立間もない上殿岡村と下殿岡村の組合立「知止小校」(ちししょうこう)に入学した。同校は今回、胸像が建立される円通寺の境内にあった。校名は「止まるを知れば危うからず」に由来している。


 「勉強好きな磯吉をぜひ入学させたい」という父周八の願いによるものだ。同じ郷土でも東北信では被差別階層の子弟は入学を排斥されていた時代状況の中で、知止小校が大江磯吉を村民の子弟と同じように受け入れたことは、両村の意識の東北信との大きな差であろう。

 大江家の隣家「尚天堂」(しょうてんどう)の3代前の当主由平、その子の梅太郎・庄次郎兄弟は大江家に対し物心両面にわたって、並々ならぬ援助をした。このことは大江磯吉の毛筆による流麗な書簡数点が、現当主尚さんとその父尚治さんによって「尚天堂日誌」とともに大切に保管されていて、大江磯吉研究者の間では大切な資料となっている。

 大江磯吉より7歳年長の梅太郎は、1875(明治8)年、知止小校を卒業し、飯田学校上等科に進学。さらに、愛知県豊橋市の浅井塾で英語・数学を学んで東京大学別科医科(現東大医学部)に進んだ。同大を卒業し医師免許を得て1887年、下殿岡村の自宅に医院を開業した。

 梅太郎は、患者の結核に感染して1894年、32歳で早逝してしまったが、弟庄次郎が父や兄の遺志を継いで、大江磯吉を全面的に支援した。

 そうした思いが込められている「尚天堂」の屋号を今日まで継いでいる尚さんに、自然農法による果樹の収穫・出荷で忙しいなか、時間を割いていただき、話を聞いた。


―いろいろおじいさんから聞いていることと思いますが、その一端をお聞きしたい。

 ◆物質的にどのくらいということは分かりませんが、大江磯吉の書簡を見ると、かなりの面倒をみていたようです。良い人柄とともに利発な子どもだったので、祖父たちも面倒の見がいがあったようです。

 磯吉の父周八も自分の被差別体験から、何とかして磯吉に学問だけは身につけさせたいとの思いが強かったのだと思います。

 ―筆文字を見ると、大江磯吉も達筆ですが、梅太郎・庄次郎兄弟も仲々の達筆ですね。

 ◆当時の時代として、毛筆に頼らざるを得なかったことは当然ですが、それにしてもうまいと思います。磯吉は教科書を借りれば一晩で、筆字で書き移して、翌朝には返したということも聞いています。とにかく、学問に対する熱意と努力はすごかったようです。

 ―矢沢家だけでなく、地域の人たちも、大江磯吉に対して温かい目を持っていたようですね。

 ◆当家だけでなく、円通寺の住職や公文所の矢沢理区長らも、陰に日なたに面倒をみたようです。磯吉の両親である周八・志のの人柄、それに磯吉の優秀性とまじめさが、周りの人たちに愛されたのだと思います。

 さらに下殿岡の人たちみんなが大江家に対して温かい態度で接しています。それは、神前結婚式や住宅の建て替え、ずっとあとになる周八―志の―磯吉―磯吉の妻「つま」の、下殿岡共同墓地への埋葬の配慮などに表れていると思います。

 ―今の下殿岡に新しい動きがあると聞きましたが。

 ◆旧大江家跡地を整地して、そこに「大江記念館」を建てたらどうかという話があります。「大江磯吉胸像建立の会」の皆さんの努力で、近くの円通寺に胸像が建立されるようですし、ここが、大江磯吉の遺徳を顕彰する場所として、脚光を浴びることになることを期待します。



第3回

磯吉と親しかった祖母を語る


胸像建立の会内部講師
 平田正宏さん(76)
 飯田市立緑ケ丘中学校長を最後に退職し、晴耕雨読の悠々自適の生活を送っておられる、飯田市大瀬木の平田正宏さん(76)を訪ねた。平田さんは「大江磯吉胸像建立の会」の役員であり、同会の内部講師を努めている。

 同会の会議の中で、平田さんは「磯吉は長野県師範学校からの帰りに平田家に寄り、制服から貧しい服に着替えて、下殿岡の生家に帰った」ということを祖母のじゅんさんから聞いた思い出を明らかにした。
 平田さんの祖父の象蔵(きさぞう)さんは大江磯吉と飯田学校の上等小学の同級生であり、同じクラスメイトの勅使河原定四郎の妹が、象蔵の妻となったじゅんさんであるところから、平田家と親交があったという。

 さらに、じゅんさんは飯田学校高等科から長野県尋常師範学校への女性第1号入学者であったところから、同師範学校の教諭も務めた大江磯吉との親交はうなずけるところだ。

 当時、同師範学校の女性第1期生18人のうち、下伊那から岡部ひろ、佐藤せき、勅使河原じゅん(のち平田姓)の3人が進学しており、下伊那の教育水準の高さが注目されたという。

 ―平田さんの祖父母は大江磯吉と同級生やその妹という関係から、当然のように親密度は高くて、大江磯吉は実家に帰る時に寄りやすかったということでしょうか。

 ◆祖母は長命だったし、記憶力もよかったので、幼い私に、大江磯吉の素晴らしさを繰り返し話してくれました。尋常師範に進んだ女性3人組は飯田学校高等科まで菱田三男治(後の春草)とも同級生で、特に祖母は“またいとこ”の間柄だったので、春草との親交度も大きかったようです。

 ―大江磯吉の長野からの帰宅ルートはどのようだったのですか。

 ◆国鉄中央西線で三留野(木曽郡南木曾町)まで来て、そこから徒歩で妻籠経由で大平峠と鳩打峠を越えて、大瀬木の拙宅に寄って、旅の疲れを癒しながら着替えて、下殿岡まで歩いて行ったようです。

 ―島崎藤村とのかかわりは、何かあったのでしょうか。

 ◆詳しいことは分かりませんが、藤村は子どものころに伊賀良の親戚に遊びに来ていたということを聞きましたが、そのころは大江磯吉とのかかわりは直接的にはなかったようです。

 藤村が大江磯吉に深い興味を持つようになったのは、小諸に移ってからで、被差別問題と深くかかわり、多くの取材をして、「破戒」の執筆で世に問うたのだと思います。この辺の経過は人権教育研究者の東栄蔵先生の「大江磯吉とその時代」(信濃毎日新聞社発行)の中で、詳しく述べられている通りだと思います。

 ―明治時代初めのころの学制は変動が激しかったようですが、どのようだったのでしょうか。

 ◆明治5年から8年までは上等小学4年、下等小学4年で義務教育は8年ということで新学制がスタートしたのですが、上等小学への進学はほとんどなかったようです。明治9年から義務教育は4年となりました。さらに15年には高等科2年、中等科3年、初等科3年となり、義務教育は3年となって時代に即応しておりました。

 大江磯吉のようにずば抜けて成績のよい者は、小学校卒業と同時に母校の授業生(助教)となって給料を支給されたようです。この授業生を努めた大江磯吉、羽生慶三郎、勅使河原定四郎、木下鍬太郎の4人は公立下伊那中学校(飯田高校の前身)を経て、大江と勅使河原が師範学校へ、羽生が大学の法科に進んでいます。  =つづく


第2回

「人権意識を高める機会に」

 演劇を通して、地域文化の発展に尽くした人たちを発掘、表現し、理解を深めたいとの理想に燃えて、飯田下伊那地方の演劇を志す人たちを糾合してスタートしたのが市民演劇集団「演劇宿」だ。

 同劇団は昨年、その第1弾として、泰阜村が生んだ夭折の薄幸歌人「金田千鶴」の生涯を初めて演劇化して大きな反響を呼んだ。その過程で、第2弾は飯田市出身の「忍と力」の教育者「大江磯吉」を取り上げようと決めていた。

「演劇宿」主宰
小澤廣人さん(57)

 飯田市教委、飯田文化会館とタイアップして「大江磯吉の生涯―演劇宿版 破戒考」(仮称)の制作に取り組む同劇団主宰者の小澤廣人さん(57)。水平社運動が始まる前、いわゆる「部落問題」が社会科学的に検証されていなかった時代に、苛烈な差別に遭いながらも、敢然とそれに立ち向かい、教育者として生きた大江磯吉の生涯を、島崎藤村の小説「破戒」との関連で初めて演劇化する。

 この演劇を通じて、市民が郷土の先達の生き方に学ぶ機会を提供し、さらには人々が人権を大切にする意識を一層高めていってほしい、との願いを込める小澤さんに、その燃ゆる思いを聞いた

 ―今回、大江磯吉を取り上げる第一の理由は何でしょう。

 ◆やはり郷土出身の偉大な教育者であったということと、恵まれていない―というより苛酷な被差別の環境の中で、ひたすら教育に命を燃やした先人を、演劇を通して表現したいとの使命感の一端です。
 それと、日露戦争を前にして、国家主義思想が教育界を覆う中、ヒューマニズムを土台として、子どもたちの自発性を育む開発主義教育をおし進めた大江磯吉の生涯を、演劇として観て下さる市民の方々一人ひとりが、人権を大切にする意識を一層高めていく機会にしていただければ、と願っています。

 ―具体的な日程はどのように進めていくのでしょうか。

 ◆23日に正式に実行委員会が発足し、即日公演スタッフとキャストの募集を始めます。実行委員会は全郡市民の協力を得るための応援団になっていただくため、それぞれの立場で取り組んでいただくことを期待しています。既に準備段階で35人の申し込みがあり、心強く思っています。

 ―実際の公演はいつころになるのでしょうか。

 ◆脚本を「金田千鶴」と同じく、元日本演出家協会理事長で、現日本劇団協会理事と劇作家協会理事を兼ねているふじたあさやさんにお願いしてあります。その脱稿いかんによりますが、それ以前にスタッフの諸準備と、今年12月までの第1期オーディションをしておかなければと思ってます。

 その他「破戒」の読み合わせなど、基礎的な勉強や「演劇宿」のけいこへの参加などの事前研修もあり、順調にいって来年の12月を予定しています。

 ―スタッフの諸準備も大変でしょう。「金田千鶴」の公演で実験済みとはいえ。

 ◆表面には出ないけれども、衣裳・舞台美術・音響・照明・音楽・制作事務などのスタッフが必要で、これに着付け補助、メイク補助、舞台衣裳の縫い物、大工仕事、チラシデザインなどの広い分野の人たちの応援が必要です。

 ―本格的なけいこに入ると、自動車販売会社社長との二足のワラジで、大変だと思いますが。

 ◆会社は昼間、社員と妻の協力でやり、けいこは夜間徹底して集中的にやりますので、後顧の憂いはありません。飯田文化協会の事務局長のころの延長のようなものですから。「演劇宿」の活動をライフワークとして、苦しみながら、楽しんでやっています。



第1回

「心ある皆様のお陰で完成へ」


胸像建立の会会長
片桐弘彰さん(68)
 −今年、胸像を建立することになったきっかけは何だったのでしょうか。

 ◆南信濃村出身の元明治大学教授、故・後藤総一郎さんが98年に、「飯田高校の同窓会名簿に大江磯吉の名前が載っていない」と指摘して、01年発行の同窓会名簿に小平(旧姓)磯吉として掲載されたこと。さらに、01年9月5日、大江磯吉没後100年の法要を営み、記念講演会を開催したこと。こうした経過をたどる中で、機が熟して来て、今年、胸像を建立することになりました。
 −僧職の片桐さんがなぜ胸像建立の会の会長を。

 ◆遺徳を顕彰するため胸像を建立しようという声は飯田高校同窓会員有志の中から起こりました。同窓会としては先年、独立100周年記念事業、続いて創立120年記念行事があり、同窓会主体では大きな行事続きで大変だろうとの配慮から、有志で建立の会を立ちあげ、私が責任者をおおせつかりました。

 会員は旧制中学卒から高校卒の若い人たちまで、多士済々です。先輩各位も大勢いますが、私は高5回卒で中間層ということと、菩提寺の住職ということで、適当と思われたのでしょうか。

 −建立の場所が二転三転としたようですが、円通寺に落ち着いたわけですね。

 ◆檀徒の皆さんも事情をよく理解して下さり、快く承諾していただきました。今、建立場所の基礎工事中であり、10月7日には滞りなく除幕式ができるものと期待しております。

 −建立のための浄財は予想以上に集まったと聞いていますが。

 ◆130万円というギリギリの予算を目標にして募金活動をスタートしましたが、同窓会報や報道のおかげで、200万円の大台に乗りました。同窓会員だけでなく、地域の方々や心ある皆様のおかげで初期の目的が達せそうです。

 当初は台座に人工石を積みあげて、その上にブロンズ像を安置する計画でしたが、将来性と胸像との整合性を持たせて無垢(むく)の自然石にしました。除幕式が済んだら、皆様、ぜひ一度、見に来ていただきたいと思います。 合掌  =つづく


製作・著作:南信州新聞社