父と娘の交感を、写真と文章でつづった本紙連載の「ふぉと・だいあろーぐ」が終わりました。一九五○年生まれの父、南島孝さんと、七五年生まれの娘、絵里子さん。年齢差こそあれ、ふたりは互いに刺激し合いながらも連載を通じて表現の研さんを積みました。特に絵里子さんはこの間、日本写真芸術学会賞や飯田市藤本四八写真文化賞奨励賞を受賞するなど、写真家として、また人間としても大きな成長を遂げました。
 さてつぎは、ほぼ対等な立場となったふたりが、写真家として新たな視点からの作品発表に挑みます。新シリーズ・タイトルは「アンダーカレント」。底流とか暗流といった意味ですが、それは表面に現れない感情や思いの動きであり、表面に現れない流れのことでもあります。その流れはどこから来て、どこへ向かうのか。父と娘が丁々発止のフォトエッセイで表現します。




瀬戸内―粟島からもらったもの

 おにぎりの横には金平糖がついていた。おにぎりのおかげで粟島にまた縁ができて戻った。ちゃんと別れることができなかった施設の皆さんと、二時間ばかり楽しい時間を過ごさせてもらった。桜貝を見つけられなかったと嘆く私におにぎりを作ってくれた奥さんが、ビンいっぱいの桜貝をわざわざ家から持ってきてくれた。桜貝を初めて見た嬉しさと、その気持ちの温かさに、また踊り出しそうだった。

 別れ際みんな、少しそっけなかった。でもそれくらいでよかった。寂しいのは勘弁だった。フェリーの時間までの十五分くらいの間、島の細い道を生活の匂いをかぎながらぎりぎりまで歩いて過ごした。百日紅が鮮やかに咲いていた。そしてフェリーに乗り込もうとしたとき、あの名物主人がケーワゴンを百メートルくらい先の車止めまで乗りつけて、短いクラクションを一回鳴らして、手を振っていた。サングラスで表情はわからなかったけれど、車をUターンさせて引き返しながらこちらが見えなくなるまで大きく腕を振ってくれた。私はサングラスを外して腕と頭を交互に動かせるだけ動かした。

 フェリーは私の他にも旅人を乗せて出航しようとしていた。私以外の戻る場所へ帰って行く人を、他の宿の主人が丁寧に見送りに来ていた。船はゆっくり岸を離れた。その主人は割烹着に着物の奥さんらしい人と一緒に、ずっと両手を振っていた。小さな島への船は小さくてスピードが出ない。だからその二人は、船が見えなくなるまでずっとずっと両手を振り続けていた。きっとこれほど、長く手を振る別れはないだろう。今さっきの私自身の別れとその姿が一緒になって、私はぐしゃぐしゃに泣いていた。ただ、写真を撮ることはなかった。撮ることができないほど、頭に焼き付けたい場面だった。

 そうやって人の暮らしから大切なものをまた貰って、旅を終えた。





うさぎの内緒話

「いま、人間の世の中では鳥インフルエンザという、恐ろしい伝染病が流行ってるんだって。」「えっ、なぜ、人間の伝染病が鳥なの?」「わからない。でも兎インフルエンザってあるのかな?」「うさぎがたくさん死んだら、きっと疑われるのかもしれないよ。」「カラスにも、鳥インフルエンザが移ってたくさん死んだって。」「こうして頭を寄せ合って話し込んでいると、もし誰かが兎インフルエンザをもっていたら、移っちゃうじゃない。」「解散、解散」

 なぜか、仲良さそうなうさぎの寄り合いを見てこんな風な会話を連想してしまった。

ある日突然に、東南アジアの鶏の事件が日本に飛び火した。今まで何の気なしに食べていた牛肉や鶏肉が最近の事件から食べにくくなった。何を食べていいのか、何に接していいのか、困ってしまう。かわいいうさぎの動作の中にも何か得体の知れない不安を見てしまう。「大丈夫だよ。兎インフルエンザなんてないよ。」

絵里子





雪の情景

 伊那谷から遠山谷へ向かっていた。飯田をでた時にはわずかに舞い始めていた雪だったが、矢筈ダムを越える頃には激しくなっていた。川沿いにカーブを曲がったあと、目に開けた高架インターは大小さまざまな白い点が重なりあって巨大なコンクリートの風景を遠のけていた。

 ワイパーの返りが雪を払うとハッとした。それは法面に施された阿島傘のレリーフだったのだが、白くなり始めていた枯れた風景の中に、妙に艶っぽい白い線を見た。一センチ足らずに掘り込まれたエッジにはところどこに雪が積って斜面が起き上がってくるようだった。和傘の骨は雪の降ってくる方向から白く縁取られ、雪をよけるように絵の中で女の下駄が上がっていた。雪の中の情景によってこのレリーフは呼吸し始めていた。人に作られたもの、あるいは人自体が夕陽の中で輝くのに似て、描いた人が思いもよらなかっただろう時が絵を冷たく輝かせていた。次の時間には一面が真っ白に覆われるだろう。







天空晩秋

 つづら折りの道を降りきった最後のところ、そこで下栗集落は切れ、遠山川のV字谷へまっ逆さまに落ち込んでゆく。そこには大きな栗の木があって、その下に傾いた犬小屋がある。

 今日はもう、もしかしたらと、期待するのはやめた。この夏の初め、もうそこにはクロはいなかった。眼の上に一対の白い斑毛をのせた四つ目の犬がいつもそこに居て、それを自分勝手に「クロ」と呼んだ。近づくと、背中を丸めて訝(いぶか)しげにこちらを見て、一定の距離まで離れて、決して尾を振って近づくことはなかった。桜の時期には、もう元気がなかった。ある予感がした。その前の夏、強い陽射しの中、栗の葉の木陰から珍しくこちらに向かって視線を投げ返した。錆びたチェーンがガラガラと餌入れのアルミの鍋を擦った。そのときだけほんの少し近づいた。

 聖岳・兎岳の南ア稜線から派生する尾根は遠山川に鋭角に滑り込んで、その四季の風景は間違いなく巡ってゆく。天空から川へ季節がおりてゆく度に、知らぬ間に家々も変わって、雨戸は開かれないままにある。






彩色地蔵

 最近、リアルな色を施したフィギュアが売れていて次から次へと発売される。それは過去の架空物語の登場キャラクターであったり、懐かしい風情のシーンの再現だったりする。共通する点は、それらのものが自分たちの今の意識の中で、すでに色を失っていることだ。

 こんなデフォルメされた子供を見たことはないが、肌色に彩色されたコンクリート製の像だと割り切ることもできない。鼻の一部が欠落して眼を閉じる姿は、それが日々の風雪に耐えてきた証として人の心の隙間から滑り込んで、信仰となっていた。首に巻かれた玩具の類、誰がどんな理由でそこに置き去ったかは知る由もない。

 色は、人の記憶を揺さぶって、今の中に、新しく置き換えるほどの力を持っている。色をつけるということは人の想像を規定してしまう。自然本来の色は眼がその存在を容認してしまうほど淡い。リアルそうな色がやがて褪(さ)めてゆく過程に、はたして意味があるのだろうか・・・。






なつさがし

 その日は誰もが夏らしさを認める暑い午後で、市の朝顔の花がとっくにその日の仕事を終わらせて夕涼みをしているような、水を打たれてつやつやと光を集めている様子を、ラムネを飲みながら眺めた。ビーだまをうまく舌で持ち上げられなくてもたもたしていたらすぐラムネはぬるくなってしまった。

 帰り道、乗った電車はいくつめかの駅のホームに入り、ドアが開いた。行き交う人の流れが途切れたとき、そこに浴衣の女の子が立っている風景が束の間あった。ひらけた・・。という感じだったその風景を見つけた私は、だらしなくなりかけた姿勢と視線をぴっと伸ばしていた。少し先の光の中に後姿がつくるその表情は顔が見える人たちよりもそこにいることを静かなのに強調して、そしてきれいだった。もうすこし見ていたい気持ちをそこに残して電車は走り出し、その風景はすぐ流れていった。

 存在感はいろんな形で静かで小さくてもどこかで見つけられるはずだと、探さなければいつのまにか通り過ぎていってしまうかもしれない。そんなふうに今年の夏を思った。

絵里子





この小さきもの、すずらん。

 入笠山へは、諏訪南インターから直接登る道と、高遠から延々と登る沢ぞいの道とがあって、いずれも林道である。高速から直接登る道は、スキー場や別荘地があって、道はそれらを伝うように山の端を弧を描く。展望台を過ぎたあたりから、林道らしくなった道は湿地帯に辿り着く頃には急登が終わる。あとは高原道路といった趣に変る。対して、高遠からの道は山室川ぞいに細くなったり太くなったりして、いくつかの集落を過ぎる。最後の部落は芝平(シビラ)と呼ばれ、集団移住がずっと昔に完了して廃屋が点在している。時間は遠い昔の時点で静止したまま、ただ朽ちてゆく家々。僅かに見えたのは都会を捨ててきたらしい新しき人影。林道はここを過ぎると車幅がやっとで、息をつくように登る。

 何処に鈴蘭があるのかわからなかった。高みからは一面の緑、ところどころに紫や赤黄色の花々が群生しているのは目につくが、斜面を下りて草をかき分けるまで、その存在は目に入らなかった。これ以上小さな花はないと思うほど、その白さは風に揺れていて、手のひらで包んだ。丸みをつけた手のひらの指の隙間から、花のひとつが漏れないかとゆっくりと持ち上げた。花たちはすべてが下を向いていて、上を向けた瞬間、かすかに香った。そっと戻す自らの手は、生まれたての赤子の指を触るように、動作をつとめて静かにした。

 小さきもの、それは命。命の存在は微かな風に揺れて、しかも、とらえどころのない揺れに揺れ任せていた。ユラユラ、ゆらゆら。

 帰途、高遠への降りを選んだ。車はゆっくりと木々の光の隙間を縫っていった。ぽつぽつと雨が降ってきて、このくらいなら葉の影の鈴蘭は濡れていないなと思った。シビラを過ぎるまで1台の車にも出会わなかった。







道の終わり 〜南紀、熊野古道への旅〜後編

 道は至るべきものに辿り着くために続いている・・・。古道と呼ばれる道は歴史という背景を携え、新しい今の道と合わさりながら存在する。熊野古道は、熊野三山と呼ばれる神々が鎮まる特別な場所への参詣道として、千年の時をつないでいる。私が歩いた中辺路はその三山の1つ熊野本宮大社への、霊場への始まりといわれる滝尻王子からの2日間をかける、杉木立の深い連山が光を閉ざす静かな道だった。とはいえ、修験道として霊験あらたかな道とされているように予想以上に谷川を超える厳しい山道だった。

 昔の人々は確実に最短距離で結んだのだと話した、1日目の終りに辿り着いた里山で迎えてくれた宿のご主人の最初と最後の締めくくりには、山々に向けられる力強い眼差しを見た。あくる日の霧雨の夕方、熊野本宮の神々が通るにふさわしい鳥居が道の終点を知らせてくれた。その道の終りを迎え、場所としてそこに存在するのではなくて、今にも形として残ることの意味よりむしろ、なぜそこに道がつくられたのかという古の人々の気持ちがそこで感じられるということに、目に見えない意味が在りうるのだろと思った。

 歩いた証が残る下半身の痛みに苦笑して、2日かけて歩いた距離をバスで1時間の帰路は、ただ眠りの中だった。

(絵里子)







道の終わり〜南紀、熊野古道への旅〜前編

 車を、南紀に、先の春に向かって走らせた。海までの途中の山並みは、見慣れた木々の色を持っていない印象で、それは針葉樹の葉を落とさないで春を迎える、独特な濃い色合いだった。東から西へ、繋がっていった景色なのに、車窓の景色を高速のスピードとともに確かに変えて、匂いを含んだ空気も違う土地に入った感覚があった。
 そして南へ。その先にあったのは山と街と道の終点の、ずーっと繋がる平らな景色だった。山に囲まれて育った私にはその海の存在を前にするといつも戸惑いを感じてしまう。その景色に対する覚悟がないといったらよいか、海がナニモノか知っていないからだろう。その土地で出遭った人々には海を知っている暮らしをちゃんと持ち合わせているんだろうと思えるような、穏やかな表情の後ろに、海に向き合い暮らすための用意された気持ちが伺える印象があった。

 旅というものにはいつも使いきれていない目、耳、鼻、触覚のすべての五感という感覚が大きく動かされるのを感じると同時に、自分の日常を再確認できる要素があるように思う。砂とは異なる細かい砂利を返す、炭酸ソーダのはじけるようなシュワーッという寄せては返す波音が、海沿いを後にしたあともしばらく耳に残っていた。(つづく)






近道は坂道、坂道は遠い道。

 濃くなった陽射しに、ふと歩きたくなった。助手席から車を降り、お店まで、できれば一直線にゆこうと思った。目の前には、いきなり2つの塚があり、それを登った。登りきると足のあちこちがチクチクと痛んだ。見れば、泥棒草がいっぱい着いて、足がハリネズミになっていた。そこに座り込んで一本一本抜き始める。まだ風は冷たく、まつ毛を越す風に「しまったなあ。」と呟いた。十分ほどそれにかかっただろうか、「ほんの少ししか、種を運ばずにゴメンナ。」立ち上がろうとしたとき、蝉の抜け殻とどんぐりの抜け殻を見つけた。夏と秋の季節の忘れものが陽射しを浴びて左と右にあった。

 細い道をジグザグに続けた。畑の土手の道を軽トラックのおばさんが慎重に運転して来た。野良用の頭巾帽子のつばがフロントガラスにくっつくほどに前のめりになって、踏み外さないように、慎重に進んできた。それを左によけて、見送った。相変わらず、ゆっくりと、しかし、ボコンボコンと車は上下して小さくなっていった。

 いちばん近道と思われる長い階段を上がる。上がりきる前に保育園児の集団とすれ違うことになってしまった。ワイワイガヤガヤ、2人づつ手をつないで下りてきた。子供たちにとっては高すぎるほどの段差を、いとも簡単に下りてくる。振り返り、空を見上げ、指をさし、いちばん最後の子は先生に手を取られて泣き続けていた。「何で泣いてるんだ?」それも賑やかな子供たちの声にかき消されて聞こえなかった。通り過ぎたあと、何かにおいが残っていた。「ああ・・・あれは給食室の匂いだ。」






川に降る雪

 ずっと前から海に降る雪が見たいと思っていた。鉛色の空ともっと濃い鉛色の海、白い波頭ともっと白い雪の浜。それが一体になるグラテーションの中を斜めに灰色の大粒の雪が降りる。そして、果てなく海に降り続ける。

 やはり、「2月の雪」である。見上げると大粒の雪がさまざまな形で舞い降りてくる。ゆらゆらと。白くはなく、グレーに沈みながら、次から次へと顔に降りた。今度は天竜川に向かって見下ろすと、雪は白く直線に小さくなっていって、深い青緑の中に溶けた。ひとひらの雪をそのときまで目で確認し続けることはとてもできない。何度か試みるが、ある一瞬に他の雪の片と交じり合って、見失ってしまった。形あるものが衆の中にその形を失い、消えた。

 雪たちが雲間から降りはじめたとき、その行方は決して定まってはいなかった。ひとひらの雪はそれぞれに、草に降り、屋根に降り、道に降り、さまざまな行方をたどり、そして川にも降りた。そう、迷いながら尋ねていくように。

 その瞬間まで川に溶けるものとしていた雪は、たまたま、1艘の舟が通りかかって、その雪見の囲いの上に降りた。雪は、暖かい空気に触れてしゅあ…っと溶けた。

 どんどんと続くひとひらがレンズの前を通り過ぎる。「写ってくれ」形をとどめておきたい。







ここまで・・・のしるし

 最後にいつ会ったか分からないくらいの、小学校の頃の友達に久しぶりに再会した日、もうすぐ愛知県に嫁ぐ話を聞いた。それこそ美しく成長を遂げた彼女が、びっくりするくらい眩しくて、たくさん話したかったが、口がぴくぴくひんまがってしょうがなくて上手く話せなかった。久しぶりに会えた昔の彼氏に結婚すると聞かされたらこんな感じだろう。彼女の後ろに、置いてきぼりな野暮ったい今の自分のデメキンみたいな姿がチラついて、何の話をしたかもよくわからないうちに別れ際、「絵里ちゃん、私、小学校のとき絵里ちゃんが、『詩が書けない』って詩、書いたよね。あれ、私好きだった、よーく覚えてるよ。」とそういいながらこれまた去り際さえも美しい・・・なんだけどマテヨ・・「なんだよぉ、今ごろ、なんでそんなこと覚えてて、お嫁にいく笑顔の置き土産がそんな言葉なんだぁ!!」予想すらしなかった言葉だった。
そうだ! 私は彼女にずっと憧れていた。いつもアイロンで伸ばされたガーゼの刺繍入りのハンカチを、安全ピンで綺麗な線がぴしっと真ん中を分ける毛玉一つないジャージの腰に括りつけていた。おかっぱににきび顔の私には、彼女の少し刈り上げた清潔感たっぷりのショートカットが気持ちよかった。かわいさはもちろん、運動も勉強も足元には及ばなかった。家に遊びに行けば、おばあちゃんが出してくれるイチゴショートと氷入り麦茶が美味しくて、学研の付録やリボンの全プレが羨ましくて。なにしろ、すべてが憧れだった。ただ勝手にライバル心を燃やしたのが給食と夏の一研究だった。でも結果はいつも彼女は金賞、私は銅賞。給食早食いだけが私が唯一の・・。
 詩が書けなくて書けなくて悩んでいるだけの詩が好きだったと言ってくれた彼女。そんな詩を書いた小学生の私と同じように、かちこちに頭も体も固まったときに彼女のこの言葉を思い出してふっと軽くなる。物を創ろうとするときにこのことを思い出して私はこの先何度もこの言葉を思い出そうとするんだろう。お嫁にいく彼女が私に残した言葉は、心地よいとさえ思える決別の様でもあり、同時に、ここまで・・・のしるしをつけてくれている様だった。
 新年、明けましておめでとう。遅くなったけど、結婚、おめでとう。

恵理子


ここまでのしるし・・・。しかし、これからのしるし。

 除夜の鐘が百八つ鳴って、百回響き渡る前にひとつのピリオドが打たれた。と同時に、次のピリオドに向かって発進の合図(しるし)が続けられた。「十二月はどうかいけなくって。何もかも終わってしまうような錯覚に陥っちゃう。十年以上も昔、この月の初めに息子を亡くしたせいかな。けど、正月を迎えると途端に元気になっちゃう。」そう話した友人も、「おめでとう」とほろ酔いかげんでいい年を迎えただろう。
 
 雪中の光前寺を訪ねた。青銅の肌は手がくっつくほどに冷え切っていたが、表面に浮き彫りにされた漢字四文字ずつの(自分にとっては読みきれないがためにより羅列という言葉を使うが)は、見る自分にむしろ、温かみを感じさせる陰影を持っていた。経典が遥か高く遠くの存在を見つめるのに対し、ここに浮き彫りされている字は、低く広くくしているように思った。「天下、悠久、莫大、響」の字から発せられる響きは、いつの時代においても、時とその移ろいを気の振動によって伝えてきた。時がめまぐるしく動いていたときの鐘の、ゆるやかに流れていたときの鐘の音、人それぞれがどんな響きを心の中に受けただろうか。

 百八のを拭い去ることは常人には不可能なこと、せめて、百八の鐘の間に過去の中に身を沈め、そこで何らかの「ここまでのしるし」をうち、再度起きて「これからのしるし」を聞こうと思った。共鳴して寄せてくる気の流れを感じようと思った。
そういえば、何事もなければ、今年で自分も親父の年を越えるはずだ。







サンタの告白

 忘れもしない。昔から父は大事な話があるときは、店の二階の陽のあたる商品倉庫に私を呼び出し、話をした。10歳のクリスマス前日。この日も真剣な顔で私の小さな肩を掴んで言った。「サンタさんなあ、本当はおらんのな。・・・」その言葉に「ウソだあああーー!」と私は泣き出した。小さい私には信じたくない一言だった。なぜゆえにそんな告白をはっきり受けねばならないのだろう。信じて楽しみにしているんだから、そのままどこまでも信じさせておいてくれればよかった。それがそのときの涙の理由だった。

 サンタさんは本当はいないのかもしれん。なんてことはうすうす思いながらも、いやいや、そんなことはないのだ。トナカイに乗って鈴をりんりん鳴らしながら煙突はないけどやってくるのだと、何度も思い返してきた。住所を書かないサンタさんへの手紙をポストに出しても返事は来たし、前の晩がんばって起きていたその日には手紙でお願いした、プレゼントが必ず枕元にあった。それを信じようと努力していたんだから。確かに車のトランクに、はて、プレゼントらしきものが隠されていたことも、帰ってきた手紙がどこか見たことのある字なのにも気づきながらも。

 この年から、サンタはぷっつり私のところには来なくなった。そんな私は年が変わるころまで、少々グレた。この頃になると思い出すのはあの陽のあたる光景だ。

 月日が経ってこの話をする度に、はただただ笑っている。(絵里子)

 その前の年に絵里子に言ったはずだ。「雪がないのに、サンタはトナカイで来れん。煙突がないのに入って来れん。」それでも絵里子はお礼の手紙を書いていた。宛名は住所なしの「サンタクロース様」それをポストに入れていた。俺はひょっとしたら絵里子がずっとサンタを信じ続けるんじゃないかと困っていた。








虚像と実像 ―後編―

 紅葉はすでに里まで降りてきて銀杏の葉はすっかりと黄色に変わっていた。これが落ちて丸裸になり、またやがて緑色の葉をつけるのは信じられないほどに冬がそこまで来ていた。車を走らせながら目を細めた。実像とされるものと虚像とされるものを見切りできないでいる。風に揺れる葉越しの真黄色の光に、葉を見て、光を見て、ランダムな繰り返しの中に時間が経過した。

 その道を山際に突き当たったところに貧乏神神社と名付けられた手作りの祠がある。五年ほど前ここに本尊が置かれたとき、その撮影を頼まれたという少なからずの因縁もあって、時々、その本尊の前の木をブッ叩きに来る。大きくゆっくりと呼吸し息を止め、振り下ろす。「ガツン」手から脳天までの痺れの中、何かが振り落とされた気がする。自分の中に同時に棲む実像と虚像のどちらかが振り落とされたのかもしれない。

 叩き棒を持つ前に、何をどう祈ったかが問題だった。貧乏神を追い出すことや、無病息災家内安全や、みんなそれも、ひとつの欲のかたち。何も祈らずにカラダの心棒だけ残ればいい。

 「出て行け、出て行け。貧乏神。」祭主が掛け声で応援してくれた。 

 振り返った目に天竜川に続く河岸段丘と、その上に点在する家々を見た。世界や風景というものがあらかじめそこにあるのではなく「私」が見たことによって存在する。それが実像の世界であろうと思う。そこで感じたものは静かに受け止めること。受け止めたものが虚像のはずだから。カラダの心棒だけで見ればいい。







虚像と実像 ―前編―

 ほんとうに、久しぶりにあった。彼は眼鏡の奥の大きな目をギョロっと動かしながら「どうした?」「腰から左足先までが痛い。もう、三ヶ月ほどになる。」三十数年前と違って、この日は、整形外科医と患者の立場だった。名を羽場輝夫、自分とは中学、高校と同級生で、ずいぶんと成績優秀な男だった。追えど届かない、そのうち、彼を追うのを諦めた。「痛いときの神頼み」そんな気分で、彼の開業する整形外科の窓口へ保険証を差し出した。

 自分の骨の写真(写真的に見るとこれはネガ像だが)を見て痛みの原因の説明をされる。その間、ほかのことを考えていた。「骨と肉の着いたやつとどっちがほんもののオレなんだ?」機械で腰を牽引されているあいだもずっとそれを考え続けていた。「視覚させる可視光線が実像とされるものの形をみせている。じゃあ、X線の世界ならみんな骸骨が歩いているわけだ。」

 彼の体格は大きく、横柄な口の利き方も相変わらずだった。いわゆる、科学と理論に裏打ちされた「アメリカの正義」のような男だった。理に反することがあれば、昔と同じように、鼻の穴を大きく膨らまして、殴りかかってくる迫力は想像がつく。その男が言った。「整形外科医からすればこれが実像だよ。」なるほど、確かだ。どの立場から、そのモノ、コトを見るのか。ほんとうでないこともほんとうのことも、それを虚像と実像とするならば、見る体制側からの違いだけで、ほとんど同一物なのだ。「オレは明確な立場をとらないで、実像とされるものを撮って虚像とされるものをあぶり出そうとしている。」

実像とは、「あらわれた姿とは異なる本来の姿」広辞苑はこう言っている。







手のひらの中の故郷 ―後編―

 清内路のヘルメットじいちゃんの出作りの家へはもう何度も通った。去年の夏、村の集落から毎日、バイクでおじいちゃんは山の家へとやってきては、トレードマークのようにヘルメットをかぶったまま、おばあちゃんと二人では、とても食べきれないだろうたくさんの野菜を畑にこしらえていた。整えられ、丁寧に手入れされた畑には、獣よけのラジオの音が一日中響いていた。その情景が私は好きだった。

 今年の夏、おじいちゃんが体の具合を悪くして畑仕事ができなくなったことを聞く。そのことは今年の畑にそのまま表れていた。雑草が一度も耕されなかった土に長く伸びて、野球のボールくらいの干からびた小さなスイカが一つ、転がっているだけの畑になった。

 帰り際、周りの緑に覆われて見えなくなりそうになっていたおじいちゃんのヘルメットを見つけた。はっとして、もう一度畑を改めて見回した私が確かめられたのは、畑に響く変わらないラジオのボリュームと、ひとりでに咲いた花々の鮮やかでいて静かな姿。在ったことをかろうじて、でも確かにつなげるものの存在、だった。
 それを確かめたくて、私はこの先もきっとここに何度も足を運ぶはずだ。この風景にまたヘルメットじいちゃんの姿をみつけられるといい。

絵里子

 




手のひらの中の故郷

 東京生まれの知人は、故郷があることがうらやましいと話した。-帰る場所、自然が美しくて都会では見られない光景、小さい頃よく遊んだ山、川、海-そんな場所に都市という日常から離れて、懐かしい過去を想うための場所があったら、と言った。

 聞きながらそれに反して、私にとって故郷は懐かしいときを想うための“場所”ではないように思えていた。戻った“場所”にはそのままで在ってくれる景色など何も私に映らない。変わっていないだろうと思ったところで、もうないことに敏感に気が付いて窮屈そうにしている自分がいるのを見つける。そう思って、何も言葉を言い繕えなかった。

 それから数日過ぎないうちに、この夏、お母さんの病気の看病のために東京暮らしを終わりにして田舎に帰った親友と電話で話した。それまでの彼女は、好きな映画も満足に見られない故郷に帰るのをずっとためらっていた。そんな彼女の声が今まで聞いたことがない程の早口で、ニュアンスでしか解からないくらいの故郷の言葉で話すリズムなのに、ただただ私は驚いた。彼女は故郷という“場所“を受け入れる戸惑いの中で、一月もたたないうちに彼女の内に在る故郷を、私に強烈に感じさせた。それまで本当の彼女を知らなかった気さえした。

 故郷とは何だろう。ただ美しい自然、心が癒される“場所”としてそこに在り続けて欲しいと願うなら、どこか心地のよい場所を故郷と決めればいいとさえ思える。自分には場所としてそんな地を持つからこそこんなことが言えるのだろうと思いながら、故郷を持つこととは“場所”を欲することではないように思う。それは自分の内の意識の中にもうしっかりと沁みついて存在しているものなのだろうから。…つづく

絵里子