製作・著作:南信州新聞社
2002年1月1日

新春座談会・芸術の谷「伊那谷」

河竹登志夫さん 橘左近さん 林京平さん


 芸能の谷──伊那谷。その風土と伝統を背景に、さまざまな芸の花がここで馥郁(ふくいく)と開いてきた。今も盛んに上演される人形浄瑠璃をはじめ、村ごとに伝わる地芝居の歌舞伎、そして飯田市を中心に繰り広げられる国際的な人形劇カーニバルの開催にいたるまで──そんな奥深い芸能の谷は、一方で多くの芸能関係者を育て、送り出してきた谷でもあった。中でも、谷の方言では「べんこう」といわれるその成熟した風土から、伊那谷は芸能の研究者、考証家を育てることに、より大きな特色を発揮してきたのかも知れない。昨年、親子二代にわたる歌舞伎研究により、国の文化功労者に選ばれた河竹登志夫さん(同じく文化功労者の父・繁俊博士が飯田市山本出身)も、そうした芸能の谷の血筋を確実に引いている人に違いない。その河竹さんと、飯田市扇町出身の寄席文字師匠で、噺家系図の考証家でもある橘左近さんが、この谷をめぐる芸能の過去と現在、さらには将来を語り合った。司会は、関谷邦彦・本社社長。オブザーバーとして、同じく飯田市鼎出身の演劇研究家・林京平さん(財団法人・逍遙協会理事長)が同席した。会場は、東京・神保町の学士会館。



 司会 あけましておめでとうございます。それではまず、河竹先生の今回の文化功労者推挙の意義につきまして、林先生のほうからお話しいただけますか?

   今日、ここに内容をまとめまして、原稿を持ってきました。この座談会と合わせて紙面に掲載されましょうから、ぜひ、お読みください。

 河竹先生とは、先生が大学に入られたときからのお付き合いです。もちろん、私は繁俊先生の弟子ですから、お宅(東京・松涛の家)にもしょっちゅうお伺いして、何かにつけて飲みましたね(笑)。

 河竹 そうです。お互いに(飲むのが)好きなものですからねぇ(笑)。大学では、林さんが私の1年、先輩になるんです。

   河竹先生は実は東大を出られた後、早稲田に来られたんです。それで、年は私が下ですが、早稲田では私が先輩になるわけです。今では、もう全然(笑)。河竹先生は、国家的な存在になられまして…。

 左近 文化功労者、本当におめでとうございます。

 河竹 ありがとうございます。私は早稲田で演劇を学ぶ前に、東大で物理なんかをやっておりまして、そうした勉強も多少、演劇の世界の理論(構築)に応用しているつもりではおります。

 林さんは純粋に歌舞伎の研究をしてこられたわけですが、私の場合はそういう意味で、千鳥足でありまして、歌舞伎興行と一緒に外国へ派遣されるといったこともあったものですから、その点では歌舞伎の見方が、外(海外の視点から)から見るという、やや特殊な経験をしたわけです。つまり、外国との比較ですね。そこから日本の演劇を見るという方法が、新しい分野として今回の文化功労者の(推挙の)理由にもなったかと思います。

 左近  今日は対談の前に河竹先生のご著書の「作者の家」や、大先生(繁俊博士)の追悼文集も拝読してきました。それでちょっと疑問に感じたのですが、そういう江戸歌舞伎の黙阿弥の血筋を引く家にお生まれになって、なぜ、東大で物理を勉強されたのか、最初から「おまえは演劇の世界に行け」と、そうした教育を受けなかったわけでしょうか?

 河竹 まったくありません(笑)。親父はそういうことは言いませんでした。なぜかといいますと、うちの親父自身が(「作者の家」とは)まったく育ちが違いますよね。信州から出てきて、黙阿弥の家に入るわけですが、入った当初はかならずしも親父の本意であったかどうか、分からないわけですよ。いろんな運命でそうなった。

 ですから、親父自身が書いておりますが、「こんなわけで黙阿弥の家に送りこまれてしまった」という表現がありますが、坪内逍遙先生の推晩により、いろんなのっぴきならない状況の中、(作者の家に)入ったわけです。

 自分自身は外交官かなんか、そんなものになりたかったようですよ。英語ができましたから。(作者の家に入ったことは)なんとなく不本意なものがあったでしょう。だから、子どもには跡を継げとか、そういうことは一切、一言もいいませんでした。

 私は物理をやっていて、当時は湯川秀樹さんがノーベル賞をもらったでしょう。そういう時代です。一方で親父が歌舞伎の文章を書いたりしているのを読みますと、面白いはずの歌舞伎が、ひどくつまんないものに見えたわけです。歌舞伎とはもっと楽しいものだと私は思っておりましたから、それ(歌舞伎研究)を仕事にすることは、いかにもつまらなそうだと思ったんです。

 最初から(歌舞伎研究に)行かなかった理由としては、そうしたこともあったと思いますね。これについては、いろんなところで書きましたが、私の(東大の)恩師がまれな天才だったんです。そのかたを見ていたら、とても(自分は)ノーベル賞は無理だと…(笑)。

 戦後の焼け跡の中で焼酎を飲み、映画を見たりしているうちに、だんだん本性が出てきまして、自分は俗人である−と。それで親父に話したら、どうせそんな気持ちになったなら、ちゃんと勉強したほうがいい、ということで、早稲田に入り直したわけです。片方で物理の先生をやりながら、ですね。さっき千鳥足といったのは、そういう意味でして、ずいぶん無駄なような…。まあ、分からないですがね(笑)。

 左近 しかし、まったくのシロウトが飛び込むのとは違って、環境は整っていたんじゃないですか?

 河竹 家に親父の本なんかもありましたから、そうした意味では、そうですね。

   私は河竹先生のお父さん(繁俊博士)に早稲田で教わりまして、卒業後は演劇博物館で働いておりました。定年後も、演博の中に財団法人・逍遙協会というのがありまして、今もそこに行っております。私が演博の現役のころ、橘右近さんの寄席文字の展示会などもやりました。

 左近 私の師匠ですね。うわぁ、もっと早く林先生にお会いしていたらなぁ。昨年、師匠の7回忌を無事、終えました。36年ほど、門弟として師匠に教えていただきました。

 司会 ところで林先生、ご出身は?

   飯田市鼎です。親父は、龍江でした。

 左近 えっ、うちの母親が龍江なんです。それも名字が京平先生と同じ、林姓(笑)。龍江の今田です。

   うちは、尾林です(笑)。

 司会 飯田というところは、そういう場所で、話しているうちに、みんなつながっちゃんですよ(笑)。

続く>>>



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