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大江磯吉の生涯


 大江磯吉 1868(慶応4)年、下殿岡村(現飯田市下殿岡)の被差別階層の家庭に生まれた。公立下伊那中学校を優秀な成績で卒業後、長野県師範学校、高等師範学校で学ぶ。その後、長野・大阪・鳥取の各尋常師範学校の教諭を歴任。1902(明治35)年、兵庫県柏原中学校校長在任時、母の看病のため帰省中、腸チフスにかかり34歳で逝去した。
 在職中、苛烈な差別・迫害を受けながらも、封建社会的な身分差別に対する「忍」と、先駆的な教育知識と厚い人望による「力」の生涯を生きた。国家主義思想が教育界を覆う中で、自由を尊重した教育の普及に努めた。小説「破戒」の主人公の瀬川丑松とその師、猪子蓮太郎のモデルといわれている。


 島崎藤村の小説「破戒」のモデルといわれる飯田市下殿岡出身の教育者、大江磯吉(1868―1902年)。飯田下伊那では小中学校などを中心に人権教育の題材として取り上げられてきたが、最近になって市民からの注目も高まりつつある。
 昨年は下伊那教育会館、伊賀良小学校、円通寺の3カ所に遺徳を顕彰する胸像が建立されたほか、ことし12月には市民演劇集団「演劇宿」(小澤廣人代表)により、ふじたあさやさん脚本の演劇「大江磯吉の生涯―演劇宿版破戒考―」の公演(南信州新聞社創刊50周年記念特別協力)が予定されている。
 被差別階層出身という厳しい環境下に生まれながらも、類まれなる才能を発揮して学業を成就させ、教員となってからも独自の哲学で生徒の「個」を尊重する教育に努めた。その生涯は現在も多くの研究家によって語られているが、ここで今一度、彼の人生を振り返ってみたい。
【矢澤兵庫】

幼少時代

 大江磯吉は1868年5月22日に、父周八、母志の二男として、下殿岡村(現・飯田市下殿岡)に生まれた。磯吉の祖父仙之助と周八は、天保年間に領分払いになったが、1851年9月に赦免となり下殿岡村へ帰参した。下殿岡八幡社の境内のわきにわら葺きの掘っ立て小屋を建てて定住し、殿岡、名古熊、毛賀3カ村の警備などをおこなう「下役」に従事していた。

 1874年9月に下殿岡村の円通寺に、矢沢理、矢沢和吉らの尽力で、上殿岡村下殿岡村組合立の「知止小校」が開設。6歳の磯吉は開設されたばかりの知止小校に最初の1年生として入学した。県内でも他地区では被差別階層の児童は入学を排斥されていた時代状況のなかで、同校が他の入学希望者と同じように受け入れたことは、磯吉のその後の人生に大きな影響を与えた。

 抜群の成績で知止小校を終えた磯吉は1878年、飯田学校上等科へ入学。当時は就学が義務化されておらず、村からの通学は磯吉ただ1人だった。貧窮と身分差別、兄虎之助の出奔などの災難にめげず4年間通学。卒業時には、試験成績優秀などにより長野県から頼山陽著「日本政記」を賞与され、飯田学校下等科の助教(授業生)に採用された。が、地域の人々の磯吉へのねたみと出身への中傷がからみ、1年で解雇されることとなる。



武信由太郎らとの出会い

 1882(明治15)年6月、飯田町(現・飯田市)の永昌院に郡立下伊那中学校(飯田高校の前身)が開設された。磯吉は「差別を乗り越えて生きるには学問こそ大切だ」という父周八の励ましに自らの向学心を重ね、同年7月に入学。下伊那中学は1884(明治17)年に長野県立中学校飯田支校となるが、磯吉は彼の思想に多大な影響を与える人物と出会う。武信由太郎である。

 武信は1863(文久3)年、鳥取県気多郡潮津村(現・気高郡青谷町青谷)の農家の長男として生まれた。中学に入学する直前の1876(明治9)年、師と仰ぐ山田季治が名古屋の官立英語学校に転出すると、友人5人とともに名古屋の学校に入学したという。同校卒業後、クラーク博士が教頭を務めた札幌農学校へ第4期生として入学した。博士はすでに帰国していたが、第2期生には内村鑑三、新渡戸稲造らがいた。武信はここで抜群の英語力を身につけ、卒業と同時に県立中学校飯田支校に赴任してきた。

 また、武信は飯田支校を転出してから、横浜英字新聞社などを経て、「ジャパンタイムス」の創設に参画。その後、東京高等師範教諭、早稲田大学教授となった。「英文日本年鑑」「武信ポケット新和英辞典」「武信和英辞典」などの業績を持つ、日本の英語教育学の創始的先駆者。キリスト教精神の持ち主でもあり、欧米文明に通じ自由主義を尊び、寛容の精神を貫いた人物であった。

 磯吉の教育理念の根本は、自由と平等を尊ぶところにあったが、その出発点は武信との出会いにあった。語学、特に英語に堪能で、授業では自らの翻訳書を用いたが、その英語力も中学時代に培われた。

 当時の中学校は、授業料が高く、教科書・教材などの購入費を含めると大変な負担であった。武信らは、磯吉の勤勉な態度に痛く同情し、到底購入できない辞書や参考書の類を貸与したという。磯吉は薄暗いランプの明り、時には夜の月光で読書するなどして粗末なノートに書き写し、律儀にも返却日を1日もはずすことがなかったという。

 磯吉は1885年7月に飯田支校の第1回生として卒業。このときの卒業生は、羽生慶三郎と2人だけだった。被差別階層の住民に偏見をもった人々が多いなか、磯吉が異例の中学卒業を勝ち得たのは、武信のような人道主義的知識人との出会い、品行方正で神童の誉れが高い少年に共感を持った地域の人々による支援が少なからず影響した。



長野師範卒業 平野小赴任

 磯吉は1885年9月、長野県師範学校高等師範科第2級に編入学した。当時師範学校は県内の最高学府で、入学試験は県内から優秀な人材が集まって相当難関だったが、磯吉は優秀な成績で合格。師範学生には教科書や教材費は官費で支給されており、さらにかねての矢沢由平の支援に加え、矢沢市三郎、矢沢五一、矢沢亀次郎の3氏も進学の支援を申し出た。

 これらの期待に応えるべく、学業を重ねた磯吉は、翌1886年2月に念願の給費生(学費が支給される生徒)となり、同年7月に第2番の成績で卒業。卒業式では、大勢の父兄来客を前に附属小学校で模範授業を披露する栄誉を得た。

 同年9月2日、長野県諏訪郡平野小学校(現・岡谷市)の訓導として赴任。当時の初任給は卒業時の成績順で定められており、次席だった磯吉の初任給は月給11円だった。平野小学校でも、当時は正教員の資格をもった教員は多くなく、秀才の着任を歓迎した。

 にもかからわず、その身分が判明すると、職員の間で問題となり、ついには排斥の動きが表面化した。磯吉を派遣した師範学校は、学校の混乱と問題の拡大を恐れ、同年9月9日に師範学校への出仕を命じた。磯吉は、着任後わずか7日間で排斥されたのである。



浅岡一 高等師範

 磯吉が教育への道を辛うじて保つことができたのは、平野小学校を追われた直後の9月30日に師範学校長として赴任してきた浅岡一の出会いによってである。浅岡は磯吉の資質を知り、翌1887年5月に附属小学校の訓導に任じ、教育現場への復帰を図った。また、1888年4月、磯吉が東京の高等師範学校文学科に見事合格すると、浅岡の配慮により附属小学校訓導在任のままの身分での入学が認められた。

 磯吉は、文学科で教育哲学と教育心理を主に専攻し、フランスのコンペレーの公教育論を専修した。輸入されて間もない開発主義教育学も研究の対象だった。コンペレーを選んだのは、磯吉がかねてから自由・平等を柱とした学校教育体系の確立が急務だと考えていたからである。

 当時の日本の近代教育を立ち上げたのは伊藤博文内閣(1885年ζ12月成立)の文部大臣の森有礼であった。森は富国強兵策を押し進めるため、師範学校に対し、軍事教練や軍隊式寄宿舎生活を導入して国家主義思想の推進者育成に力を注いだ。磯吉は故郷の矢沢梅太郎に宛てた手紙のなかで、森が宮中参賀直前官邸で刺客に刺されたことに触れている。



卒業して長野・大阪

 1891年2月、高等師範卒業間近の磯吉が成績抜群であることを知った浅岡一校長は、高等師範に出向き、磯吉を長野県尋常師範学校教諭に採用したいと懇願した。高等師範の教授は「大江は最上級の学生であるから、月俸40円でなければ赴任を承諾できない」と回答。浅岡は県を説得し、月給40円での採用を実現させた。磯吉は同年4月に県尋常師範学校に新任の教師として赴任することとなった。

 母校の教壇に復帰した磯吉は、ハイカラで頭脳明晰、教授ぶりは鮮やかで温厚にして謹直で、高慢ぶることがなく、敬服される立派な先生だった。少数の人々は磯吉にあこがれていた。が、大部分の人が「その身分を口にして嫌がっていた」といわれる。

 当時の世人の差別的心情は、すさまじいものがあった。文部省唱歌「故郷」の作詞者として知られる高野辰之が文芸雑誌に書いた「『破戒』後日譚(ごにちものがたり)」には、下水内教育界が磯吉を講師に招いて夏期講習会開いたとき、宿泊した飯山町(現・飯山市)の光蓮寺では、被差別階層出身ということで、宿泊をいきなり断り、畳替えをして塩をまいたと書かれている。

 排斥論者の矛先は、磯吉を支持してきた浅岡へ向けられるようになった。1893年3月、浅岡は磯吉の大阪府尋常師範学校教諭への転任を計らい、浅岡自身も同年11月に華族女学校教授に転じた。

 大阪へ赴任した磯吉は、ここでも「素性」を暴かれ、排斥運動を受けることになる。排斥運動は、磯吉の母志のが磯吉を学校に訪ねたときに居合わせた教員と生徒が、夏休みを利用してわざわざ信州へ調査に来たことに始まるといわれる。



鳥取師範

 大阪を排斥された磯吉は1895年、鳥取県尋常師範学校師範学校に長野県出身の小早川潔校長によって迎え入れられる。この着任式で、教職員や生徒を前にして自分の「出身」を明かしたとする説があるが、それを裏付ける資料はない。が、小説「破戒」の中で丑松が自分の「素性」を明かす決意をし変革を遂げたように、この鳥取時代に長野・大阪時代の「飽くまで忍べ、力は全てを解決する」という自分の身を擦り減らす態度から、自由・平等・寛容の「時代精神の注入者」として羽ばたいていく。

 鳥取県は差別意識が希薄だったわけではない。にもかかわらず、長野では下宿先を探すにも一苦労した磯吉が、鳥取では家老の屋敷あたりに住むことができ、生徒の間でも磯吉の「素性」を知っても全く問題にならなかった。鳥取での6年間の生活で差別的な扱いを受けたという資料はない。

 当時の教育は、ドイツの教育学者ヘルバルトによって提唱された教授法が主流であった。日露戦争を契機に国家主義思想が生まれ、これを国民教育の柱として定着させるのにはヘルバルト派教授法が最適だと期待されていた。磯吉は、ヘルバルト派教授法の導入に危惧を抱き、「五段論法につきて」「教育の主義」などの論文を発表し、当時の教育傾向を批判しながら、学問の本道について説いた。

 鳥取時代の磯吉は、それまでにない闊達(かったつ)さを見せ、誰にはばかることなく、一人の人間として生きている。磯吉と同僚であり朋友であった都田忠次郎の磯吉への追悼文「故大江磯吉君」によると、磯吉は議論に際し「巧に滑稽を弄して」相手を喜ばせ「好んで詭弁を構えて」相手をからかい、あくせくとして「俗塁」にしばられる人ではなかったという。

 実力にふさわしい待遇を受けながら、期待に十分応える活躍をしていた。付属小学校の経営は磯吉に一任され、生徒の生活指導で最も重要な舎監長にも任命されていた。磯吉の教育理念に憧れを抱き、彼を師と仰ぐ教員も多くいた。

 ところが、世情の国家主義的傾向は日増しに強くなり、自由・平等主義に基づく教育理念をも転換を迫られるようになった。熱烈な国家主義者である安達常正校長が着任し、組織改革をはじめとして強引な手法で改革に着手した。これを暗黒時代の到来と感じ取った磯吉は、徹頭徹尾の戦いを構築。1900年ζ11月、安達はついに強権を発動し、磯吉と彼に共鳴する都田忠次郎、影井市蔵、上地直永、住野仙蔵の5人に休職命令を発した。県が善後策に奔走し、裁判所も調査に乗り出すという大騒動となった。

 「素性」を理由に何度もの排斥を経験した磯吉だったが、鳥取に限っては、教育信念を貫徹するために教壇を去る結果になった。



兵庫県柏原校長

 官吏が権力に抗い敗れたものは、在野に下るのが普通だった。国家主義教育を推進しなければならない師範学校の教員であればなおさらである。が、磯吉は1901年3月ζ31日付けで、兵庫県柏原中学校長として復職した。

 磯吉は柏原中学校で「理想の学校」づくりに力を入れる。着任早々、中学校を郡立から県立へと移管、授業料を半額に引き下げた。また、県に要請し寄宿舎の経費を補助させ、運動場など設備の拡張をはかった。

 一貫して形式主義的な教育に批判的だった磯吉は、自由・平等・寛容を尊び、生徒の“芽”を大切にした「開発主義教育」に重きを置いた。生徒の自主性を高めるため、自治会活動や部活動を奨励。放課後の学校は活気に満ち溢れ、生徒たちは大いに青春を謳歌したという。

 磯吉の教育方針を歓迎した生徒もいたが、軍国主義的教育を受け、軍人にあこがれる上級生にとって、磯吉の「人間性を尊ぶ」教育は“生っちょろい教育”に映る。磯吉が下級生に対する「鉄拳制裁」を戒めたことが最大の要因だった。

 血気盛んな学生らは、些細なことから団結し、卒業式ボイコットを計画する。卒業生は、不満を並べた「声明書」を生徒控え室に掲げて卒業証書授与式に参加。式典が終わると卒業生だけで堂々と記念撮影をしてさっさと卒業した。すぐに「声明書」が発覚。緊急の職員集会が開かれて騒然となったが、磯吉は「一旦渡せし限りは社会人なり、校則に律すべきにあらず」と全く問題にしなかった。校長の強権を行使し抑圧することができたにもかかわらず、あえてそうしなかった。当事の卒業生である友田久雄は、柏原高校創立60周年記念誌のなかで「大江校長の雅量裁断は、今に至りても名校長・名指揮官たりしを思う」と書いている。

 磯吉は、愉快で寛容の精神の持ち主であり、生徒との触れ合いを大切にした。校風刷新のため校訓、校章、校旗を制定。自治会と各部活動を一体化した「学友会」の設立に心血を注いだ。この「理想の学校」づくりは中央の教育推進責任者からも注目を集めた。

 が、1902年6月、郷里の矢沢庄次郎から母の重病を知らせる手紙を受けた磯吉は病気で倒れてしまう。1カ月間の入院で回復し、念願の「学友会」の発会式を終えたあと、帰郷の途についた。学校長としての激務と危篤状態から脱したばかりの長旅で衰弱していた磯吉は、流行していた腸チフスに感染し、母より先に世を去ることとなった。

 磯吉は下殿岡地区の共同墓地に葬られた。法名は「謙譲院秀法智才居士」と名付けられ、墓石には「従七位 大江磯吉之墓」と刻まれている。院号のつく法名は庶民にとって最高位のものであった。地区住民の墓に囲まれながらも、ひっそりとたたずんでいる磯吉の墓には、今も参拝客が絶えない。



参考文献

 「大江磯吉とその時代」東栄蔵著 信濃毎日新聞社刊
 「『破戒』のモデル大江礒吉の生涯」荒木謙著 解放出版社刊
 「鳥取師範物語」篠村昭二著 富士書店刊



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「破戒」のモデル大江磯吉の生涯

製作・著作:南信州新聞社/南信州サイバーニュース